
丸善創業者 早矢仕有的とは誰ですか?
1869年、日本で初めて「会社設立趣意書」(かいしゃせつりつしゅいしょ)を書いたのが、「丸屋商社」(のちの丸善)だと言われています。「会社設立趣意書」とは、会社設立に対する思いや、どんな事をやる会社なのかを明記した文書です。
この中で、早矢仕有的(はやしゆうてき)は、はっきりとしたビジョンを打ち出しています。「鎖国から開放されて間もない日本は、世界と比べ、近代化がかなり遅れている。このギャップを埋める事を使命としよう!」と考え、洋書の輸入を行い、日本語に訳して販売するのです。これは日本初の洋書販売店となります。
また、鎖国の影響で、世界の経済の仕組みがわからない人が多く、「これは日本の経済にとって良くない!」と記します。世襲で商売を引き継ぐ家が圧倒的に多かった時代でしたので、経済の発展が期待できないと思ったからです。(新しいビジネスに挑戦するする意欲を奪う形となっているためです)
早矢仕は洋書を参考にし、出資者(株主)と従業員で組織する会社を日本で初めて導入した人物です。(日本初の株式会社となります)
しかし、早矢仕有的はもともと有名なお医者さんでした。何故、医者から経営者になったのでしょうか?そして、福沢諭吉との運命的な出会い、ハヤシライスの語源は早矢仕有的から来た説など更新していきます。
早矢仕有的(1837-1901)は現在の岐阜県山県市で生まれます。父親が医者を営んでいましたが、有的が子供の頃に亡くなってしまいます。そして、父親の意思を引き継いで、医者になる事を決意するのです。
有的の能力はずば抜けていました。18歳の時にはすでに医者になっており、若くして町の信頼を得ていたのです。そんな能力を見抜いた1人の男性が現われます。「高折善六」(たかおりぜんろく)です。
「こんな町医者で終わらすのはもったいない。この能力を江戸で活かさねばならない」と考えた高折は、餞別として「10両」と「心のこもった和歌」をもって有的を送り出したのです。(この恩を忘れなかった有的は、高折善六の「善」をとって丸善にしたとの説があります。
その後、日本橋の開業で成功を収めた有的でしたが、『医学や蘭学(ヨーロッパの学問)の知識だけでは駄目だ!これからは英学(黒船来航後イギリスやアメリカなどの学問が日本にも入ってきた)もちゃんと身につけねばいけない』と考えます。そして、30歳を過ぎた頃に福沢諭吉の私塾(この私塾は後に慶応義塾となります)に入学するのです。
福沢諭吉本人が「英学」・「経済学」を有的らに教えます。そして、諭吉は有的の経営者としての能力を見抜き、会社を立ち上げる事を勧めるのでした。(諭吉は自らも資金援助を行うほどの力の入れようだったそうです)
「会社設立趣意書」の考えは「諭吉」の経済に対する思いも込められており、師弟関係というよりも「同士」としての関係だったそうです。(福沢諭吉が二歳年上でした)
早矢仕有的は会社の名前を「球屋」(まるや)としました。世界で戦える会社という意味をこめて「地球」の球の文字を使ったのです。しかし、お客さんは「きゅうや」・「たまや」と間違った読み方をしたので「丸屋」に変更したそうです。
そして、1870年に日本橋に「丸屋善七店」がオープンするのです。(早矢仕有的はこの頃「丸屋善七」や「丸屋善八」という偽名を使っていました)
有的が作り上げた本屋さんには、若い人たちを数多く雇い入れました。彼らにとって、ものすごく恵まれた環境で働けたそうです。昼間は本屋さんで働き、夜は有的が持っている数多くの知識を、働いている若者に教えていたそうです。
こういう生活をしているので、働いている若者は食べる時間をも制限されていました。そこで、有的は考えます。「手っ取り早く作るにはどのようにすればよいか?」そこで、福沢諭吉と食べた「ビーフシチュー」を思い出すのです。
「これなら温めるだけでいいじゃないか!これをご飯にかけて食べれば、時間をかけずにすむぞ♪」 こうしてできたのが、あの「ハヤシライス」だと言われています。(ハヤシライスの語源は色々な説があります)
丸善は数多くの事業に関わっていきます。1871年「薬局」・1872年「裁縫」・1873年「本屋を丸善に改称」・1876年「マッチ」(日本初の国産マッチ)・1878年「インキ」・1879年「銀行」(後の東京銀行)などです。
日本の経済の礎を築いた有的でしたが、松方デフレにより深刻な不況に陥ります。そして、1884年に経営が破綻し、有的は経営から退くのでした。その後、丸善は書店に力を注ぎ再建を果たすのです。 次の経済人はこちらです
参考資料
丸善創始の話〜創始者早矢仕有的 丸善株式会社
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